横溝正史『黒蘭姫』

2022-03-01

角川文庫の『殺人鬼』所収の短編推理。『殺人鬼』と並行して執筆されたようで、雑誌「読物時事」の1948年1月号から3月号にかけて連載されている。

『殺人鬼』がエログロのカストリ雑誌に連載され、内容もそれに合わせたようなものだったのに対し、この『黒蘭姫』は本格推理色が強く、扇情的な描写はほとんどない。

「読物時事」は、ネットでチラチラ調べてみると時事通信社発行の月刊誌で、今はないみたいですが、ネットオークションでは割と取引がある。ルブランやオブライエンといった海外の推理作家をいろいろのせていて、「りべらる」なんかに比べると硬派な探偵小説誌だったようですね。

〈以下ネタバレあり〉

概要はウィキなどにも書いてありますが、トリックのポイントは変装で、短編で登場人物も少ないので、犯人はある程度読み進むとだいたい見当がつくと思う。

「黒蘭姫」こと百貨店の社長令嬢が殺人犯と疑われるが、本当は別の「黒蘭姫」がいて…という筋立てで、「犯人らしき人物を仕立て上げ、真犯人はそいつに変装する」というトリックが横溝正史には割と多い気がする。百貨店などだと目撃者も多くなるので、それを逆手に取った犯罪ともいえる。案外現実にも有効な手段かもしれない。

こういう変装トリックは『殺人鬼』や同時期の『黒猫亭事件』も同様で、三年後の『鴉』や『幽霊座』も一種の変装・すり替わりトリックといえる。この昭和22年‐28年頃は変装トリックにこなり凝っていたみたいですね。

またこの小説でも出てくる、コーヒーに青酸カリを入れて毒殺するというおなじみの方法だけど、ネット上では、青酸カリなんか入れると金属的な味と匂いがするのですぐバレてしまう、などと書いてある。これはどうなのか。アガサ・クリスティの『ポケットにライ麦を』でもコーヒーに青酸カリを入れて殺すけど、これも空理空論なんでしょうか。

日本でも実際に紅茶やコーラに青酸カリを入れて毒殺するという事件があったが、コーヒーもカフェインだから、カフェイン系の飲料であれば割とごまかしやすいのか。致死量を飲ませればいいので、被害者が「まずいコーヒーだな」と思っても、とにかく飲んでしまえばこちらのものである。

致死量の青酸カリは200~300mgといわれるが、青酸カリ(シアン化カリウム)の比重は約1.52g/㏄で、砂糖(グラニュー糖)が1.59g/㏄だから、だいたい同じ重さである。角砂糖1個が3g~4gで、つまり3000mg~4000mg。だから角砂糖の10分の1ぐらいをコーヒーに混ぜれば毒殺できることになる。

砂糖小さじ一杯で角砂糖1個分の3g~4gだから、そのさらに10分の1以下でいい。もっとも青酸カリでも砂糖でもコーヒーの中で拡散するし、マズければ飲み干さないだろうから、一口でとどめを刺すとして、やはり致死量の10倍程度の青酸カリをコーヒーに溶かすとしよう。そうすると角砂糖1個分を溶かせば十分で、スプーンに一杯青酸カリを入れて、素知らぬ顔でかき混ぜておけばよい。

で、一口、「まずいコーヒーだな、何だコリャ」で、間もなく苦しみ出し、血を吐いてバタン!といけばしめたものである。そう考えると、あながち無理筋の方法とも言えないんじゃないでしょうか。

横溝正史は薬剤師の資格を持っていたし、クリスティも看護助手として薬学の知識をある程度身に着けていたから、薬に関してあながち素人でもない。現に日本でも青酸コーラによる殺人が起こっているし、この『黒蘭姫』でも、現実に可能な殺害手段ではないでしょうか。

それと動機の考察ですが、戦争で経済格差が広がったことがその背景ともいえて、戦中・戦後の社会の変化をうまく作品に取り入れている。

横溝正史の作品はいわゆる「社会派」とは違っていて、むしろ松本清張のような「社会派」推理に一時期圧倒されてしまうけれど、江戸川乱歩に比べるとずっと執筆当時の社会状況を作品の中に描いていて、そういう点でも興味深い作家だと思います。特にこの『黒蘭姫』は、そういう人もたくさんいただろうなあと思わせるリアルな人物設定で、横溝の観察眼の鋭さをうかがわせます。