横溝正史『死神の矢』

2022-03-26

考古学者・古舘博士の一人娘である早苗の三人の求婚者、伊沢、神部、高見沢が次々に殺されていく。

伊沢は古舘邸の二階の浴室で、心臓を矢に射抜かれて、神部は都内の自宅アパートで首を絞められたうえやはり胸を矢で指され、高見沢は古舘博士と早苗のバレエを見ている最中に全身黒づくめの人物から弓で射殺される。

高見沢が殺した時点で犯人は自ら名乗り、服毒自殺するのだが、そもそも犯人の佐伯達子と古舘博士、そして早苗のバレエの師匠・松野田鶴子には常にアリバイがあった。これはなぜなのか…というストーリー。

最大のトリックは伊沢殺しのアリバイ作りなのだが、ここは読んでいても一番わかりづらかった。

佐伯達子は最初に二階に上がって伊沢の部屋を訪れた時点で伊沢を刺し殺していた。殺し方は矢を手で持って刺し殺し、浴室の窓を開け放して、あたかも外から狙い打たれたように見せかけるというもので、これはブラウン神父の「天の矢」と同じトリックである。

そして30分ほどたってから達子はもう一度二階へ上がり、伊沢が殺されているのを発見したかのように装うのだが、金田一が現場を見たとき、「浴槽には8割ぐらい湯を入れた跡があり、浴槽の栓は抜かれていたので、達子が伊沢を殺すのは時間的に不可能に思えた」と書かれている。

どうやら、浴槽の湯にせっけんを入れるので、浴槽には泡の跡が8割ぐらいの高さまで残っており、浴槽に湯が溜まった時点で伊沢は殺されたと考えられる、ということらしい。しかし伊沢の死体の死後硬直状態からしても、伊沢が殺されたのは死体の発見時より少なくとも30分ほど前であり、矛盾が生じる、と説明してあるのだが、はたしてそうなんでしょうか。

法医学的な鑑定結果を重視するなら、伊沢が殺されたのは死体発見時より半時間前と考えざるを得ず、浴槽の湯とせっけんの跡は犯人か第三者が偽装したと考えざるを得ない。原作では「達子が偽装するのは時間的に不可能」と書いてある。達子は一階の古舘や金田一いる部屋から二階へ上がり、すぐに戻ってきて「伊沢さんは殺されています」と報告したので、金田一の感覚から言っても、達子に偽装する時間はなかった、ということのようだ。

いやしかし…蛇口をいっぱいにひねってお湯を出し、せっけんを入れて浴槽に泡を塗りたくれば、1、2分でも偽装できそうな気がするが。それに仮に偽装したところで、死後硬直からどうせ正確な犯行時間はわかってしまうのだから、わざわざそんな偽装をする意味もないのでは?と思ってしまう。

こんな偽装をしたのは松野田鶴子で、田鶴子は達子が伊沢の部屋から出てくるのを見てしまい、すぐに達子の犯行に気が付いたので、達子をかばうためにこんな偽装をしたのだという。「犬神家の一族」と似たような話だが、はたしてこんな偽装に警察まで引っかかるものだろうか。だとしたら怖い話だが。

第二の神部殺しは、古舘博士が神部の首を絞めて気絶させた後、達子が神部の部屋に忍び込んでわざわざ神部を蘇生させ、改めて矢で刺し殺したというもの。神部の部屋は奥まった路地の先にあり、目撃者は誰もいない。神部の首に残っていた指の跡はかなり大きかったが、達子も人並外れて大きな指だったので、古舘博士の犯行には警察も気が付かなかった、とある。

しかし達子の指が大きいことは、真相が明らかになってから書いてあるようだ。だとしたらこれはアンフェアでは?

この「死神の矢」、どうも全体に粗雑なトリックという気がしてしまう。文代の遺書には、文代を犯した男は伊沢、神部、高見沢のうちの誰か、としか書かれていないのも雑にすぎる。三人ともロクでもない男なので別に殺してもいいのだが、それにしても作者としてももう少し書きようがあったと思う。

本格推理としてはどうなのか…というところだが、あとは古舘博士のキャラクターがおもしろいといえるかどうかだろう。